昨日は睡眠不足で疲れが溜まりすぎていた。
今まで選挙で特定の個人に肩入れしたことなんかなかった
ので、政局の動きも含め、ストレスが溜まる。
「ゴー宣道場」の倉持麟太郎氏は「リベラル的改憲論」の
大風呂敷を広げて、少なくともこのくらいの条文を網羅
しなければ改憲にならないということを説明してくれた。
わしはひたすら参加者が理解できるかどうかが気になって
いたが、例え司法試験に通った弁護士でも、憲法について
ここまで分析している者はいないだろうから、わしも含め
素人が理解できなくても仕方がない。
それでもなお、倉持氏の改憲案が、従来、保守論壇で語ら
れてきたGHQ憲法へのルサンチマンから出発しているの
ではないということくらい、宇都くんの場外乱闘の報告
を聞くと、気づいた人は少なくないようだ。
明治の初期に、日本が国民国家を採用し、立憲主義を採用
した時点では、憲法の立法事実はリベラル的価値にあると
伊藤博文らも知っていただろう。
だがそれでも、天皇制との接合を考えざるをえなかった。
わしはグローバルな「個人」というのを信じてなくて、
もしそのようなあらゆる属性を削除した「個人」を根拠に
憲法が作れるなら、世界統一憲法でいいということになる。
世界統一憲法は無理である。
ナショナリズムが内包された個人(=公民)という基準
から憲法を作ると強調した方が、誤解を招かなくていいの
ではないか?
もちろん倉持麟太郎氏が「リベラル的改憲案」を披露した
ことは画期的なことであるし、現在の護憲派は立憲主義を
崩壊させる勢力にしかなっていないことを分からせねば
ならない。
護憲派も改憲派も、どこも立憲主義には適っていない
中で、倉持氏が「リベラル的改憲案」を出したことは、
偉業である。
これを第一弾として、「ゴー宣道場」では、さらに憲法改正
の議論を続けていく。
参加者は徐々に腑に落ちるようになっていくだろう。